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家系図について

どのようにして家系図を作成するか、私の場合を例に、ご説明します。

 この図は、私に繋がる父母の名前一覧です。(存命の関係者がいるため、一部仮名に変換しています。)
 ここでは、おおむね5代前の人物まで判明し、ところによっては7代前まで知ることができました。
 7代前の祖先を呼び表す言葉は特にないそうですが、「ひいひいおじいさん の ひいおじいさん」に該当します。
 逆に、7代下の孫については、「仍孫(じょうそん)」という言葉があるようなので、私は「目黒重次郎の仍孫」だということがわかりました。

 家系図作成の基本作業は父母の戸籍を遡ることです。
 たいていは父と母で戸籍が異なるため、1代遡る毎に家の系統が倍になります。
 地味な作業が続きますが、それぞれの系統をひとつひとつ明らかにし、自身に繋がる樹が倍々と広がっていく様をみると、きっと胸に迫るものがあると思います。

 上の図は私の父方の系譜を示しています。
 私の父は、北海道の苫小牧で生まれ育ったので、父方のおじいさん(純一)の戸籍は苫小牧市に請求しました(ピンク色の部分)。
 すると、純一の父・二郎は室蘭から引越してきたため、それより古い戸籍は室蘭市にあるとのことでした(むらさき色の部分)。
 さらに、二郎の父・百三は、佐賀の神埼から移住してきたため、それ以前の情報は佐賀県神埼市に問い合わせました(オレンジ色の部分)。
 神埼市では、それ以前の戸籍は廃棄してしまったということで、「井上」の系統についてそれ以上のことは判明しませんでした。
 戸籍に妻が入ると、その女性の父名が記されるため、多くの場合、女性側の父名が最古の情報となる傾向にあります。(この場合、堀田スミの父、傳之進)

 また、純一の母・クニは伊達村から嫁いできたということで、母方の情報は伊達市に請求しました(灰色の部分)。
 さらに、クニの渡邉一家は、宮城の亘理から移住してきたため、それ以前の情報は宮城県亘理町から取得しました(黄色の部分)。

 このように、移住や婚姻によって、戸籍の請求場所が変わるため、すべてを集めようとすると、少し手間になります。

 この図は、父方のおばあさん(喜久代、上記純一妻)の系統を調べた時のものです。
 こちらは、喜久代の母・いちとその兄弟たちが養子縁組を複数回しているため、複雑な形状となりました。喜久代父の松田家も、養子縁組や先代の名前継承を繰り返しており、現在とは違う時代を感じさせるものとなっています。

 こちらの図は、私の母方のおじいさん(富男)の系譜です。
 私のおじいさんは、長野県安曇野市の農家で、あたり一帯「丸山さん」という集落に生まれ育ちました。
 父も母も丸山姓だったようで、最古の戸籍までひとつの役所で得ることができました。
 父方で最も古い丸山太右エ門の妻・ひさは、寛政12年(西暦1800年)生まれということで、ここでは18世紀の情報にたどり着くことができました。

家系図のおもしろさ

 すべての人に父と母がいて、1代遡ると新たに知ることができるご先祖様の名前は倍になります。5代前には32人のご先祖様がいて、そこまでの人数は自身を含めて63人となります。

 私の父は、私の小さい頃から
「祖先のモモゾーさんはトンデンへーである」
と言っていました。
 私は「トンデンへー」が何であるかよく分からなかったので、ほとんど聞き流していましたが、今では「屯田兵」の記録名簿がネット上にも置かれていることを知り、祖先がひとつの時代を生きた人間だったのだと気づくと、親世代・祖父母世代の語る情報がとても貴重なものだと実感するようになりました。
 百三の息子が結婚した妻の渡邉一家も、何らかのタイミングで、何らかの事情があって宮城の亘理から北海道の伊達に渡ったものと思われますが、そのあたりの事情は、祖父母が他界した今となっては知ることが困難です。
 そして、そのようなエピソードは、16人いる高祖父母のひとつふたつの話に過ぎず、本当はもっと興味深い話が人々の数だけあるのです。

 市区町村の役所が義務として戸籍を保存する年数には限りがあり、また、先祖代々のことを知る方々が思いもよらず先立ってしまうこともあります。
 もし、ご先祖様の由来について、ご興味があれば、できるだけ早くに情報収集に取り掛かることをおすすめ致します。

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